なろう系が何故流行っているのかー小説家志望の勘違い
初っ端これを書くのもどうかと思うが自分はなろう系の文章がそもそも嫌いです
所感としてはストーリーが薄く、メッセージ性に欠け、日本語が怪しいところが多いのも一因だし
僕みたいな変に小難しいことしか考えないような人間にとっては哲学書読んでる方が気が楽なんですよね
じゃあ何故こんな記事を書くのかと言うと、気が乗ったからっていう理由です
ライブ後の熱冷ましと同時に、ちょこっと思いついたことメモしておけば便利かなと
その思いついた内容が、自分の勘違いについてですね
まず前提に、なろう系小説は現に売れている、っぽいんですよ
自分のような物書きになりたい人間にとっては市場研究もしなければならないため動向程度は伺っているが、読むのが苦痛だと思っています
僕はそういう面白くないのを漁る人間なんですけど
とは言っても僕らの世代にはやったのはライトノベルで、良く良く考えればあまり人のことは言えないなと
じゃあ何故僕から見ると薄っぺらくストーリー性に欠け、深める内容がない小説がウケているのか
最初自分は今の子供の読む能力が下がっているからだと割と雑に考えていた節があります
が、しかし、僕らの世代から子供のレベルというのはあまり変わっていない
高くなったとは言えないが、でも別になにか特別低くなったとも言えないだろうと思うんですよ
塾講師をしながら生徒を見ていても僕らの世代のような頭の悪さが悪い意味でそのまま残ってる、というか子供ってこんなにアホだったのかと思わされますね
じゃあ流行った理由は何か
ここで安直にライトノベルに繋げてもいいんですけども、2つに大きくとは言わないもののそれなりの差があるという気はするので
比較した上で同じ点と違う点をさらってみようと思ってます
ここで僕らの世代でライトノベルがなぜ流行ったのか考えてみようと思います
僕はアニメから入った人間なんですけど、アニメと絡めながら展開して行ったライトノベルははいるのが容易であり、挿絵が多く読みやすく、尚且つそれまでに多くはなかった非日常が描かれていた
没入感を出し、読者を主人公にあてさせながら、ある程度の苦境と達成感を1本の小説の中に落とし込む作業が必要になると思っています
わかりやすく言えば他人の成功経験を小説を介して味合わせるのだ
ものによっては失敗体験もあり(とらドラとか、苦手だったなあれ)いろんな他者の人生を歩めるという小説の強みを存分に活かして書いたものだと言えますね、小説の醍醐味です
代わりに人生の追体験というテーマをこなさなければならないために小難しい問題を考えさせることができなくなったとも言えます
これが多分小説とライトノベルの大きな差なのかなと思ってます
これは構造上ある程度仕方が無いと考えています
例えばお兄様みたいに読者が分からない、または実感を伴って理解できない用語をバンバン出す分には問題になりません
文字を追えばその世界に入った気になれるからですね
しかし、現実に近い問題だと違う
例えば中学校でのいじめの話になれば、実感が伴いやすく、逆に没入感が薄れる
現実に引き戻されると言ってもいいですね
没入感が薄れるとそれだけで追体験といった印象が薄れてしまうんですよね
これらを介して僕らは成功体験という稀有なものを受け取っていたんじゃないかと類推することが出来ると思います
じゃあなろうはどうか
ぶっちゃけ僕らの世代からすると面白くないという意見が多いと思います、自分の周りだけかもしれませんが
実際周囲の人間や、アニメを多く見てる同世代の人間達は見ては「クソアニメだ…」と死んでますね、自分もそうですけど
がしかし、これは現に売れている、アニメ化はまぁゴリ押しかもしれませんが
まぁでもつまり需要があるという事になるんですよ
ならなろう小説から今の子供たちは何を受け取っているのか
僕らの世代と同じ観点で語るのもある程度どうかとは思うけれど、子供が欲しているものは大きくは一緒だろうと考えると、
成功体験を欲していると考えられる
がしかし、なろうは成功はしていない
どういうことかと言うと、過程がないと成功とは言えないんですよ
こういう理由なんですけど
苦悩も挫折もあまりなく、周りに人がよってくる(今流行りの復讐物もまた別枠で語るべきかな?)
では成功ではなく、もうちょっと成功体験の根本、承認欲求を満たしていると考えます
マズローで有名ですね
結論としては割と単純だが、仮説のスタートとしては申し分ないと思います
この場合、話が薄い、ストーリー性に欠けるという欠点が長所になる可能性がある
学校でよく言われなかっただろうか、行間を読めと
この仮説に至ったのはこの聞きあきた言葉である
正直に僕の立場を言うなら行間などない、と言い切りたいところだがここでは違う
行間が増えることによって、読者が介入できる余地が増えているのである
まぁ、白紙が増えているだけと言われれば元も子もないんですけど…
自己を主人公として投影した時に、通常の小説であれば描写が細かく、想像の割り込む余地がない、又はあまりない
基本的には書いてある描写からどんな情景か思い浮かべ、書き手が何を示したいのか、メッセージ性を拾いに行こうとする
これが従来の小説の形です
この場合、書いてある文章の解読が読者の主な任務になりまさ
何度も言うが読者の想像の余地はかなり少ないと思います
ある程度想像に任せる部分もあるが、必要最低限の情報は提示する、これが基本です
そうじゃないと伏線にならないんです物
では地の文や情景描写、はたまた主人公の過去すら薄い小説はどうだろうか
これらは想像の余地が広い、極大だ
真っ白とも言えますが
どんな場合にも好きなように想像の余地があるということですね
つまり
メアリースーでも二次創作でもなんでも出来るという訳だ
いつだってオリキャラを出せるしそれに対する齟齬が起きにくい
多分SAO読んでる層とかしたんじゃないかな、自分があの世界に囚われたらどうしてたかとか
多分あれである
あれをどの場面にでも差し込めるのだ
昨今の子供はコミュニティー性に欠け、自己の承認欲求を満たせていないみたいな話は多分探せばいくらでも落ちてるわけで
多分なろう小説というのは今まで発信する側が提示してきた成功体験を、読者側で作らせるようなシステムになってるんじゃないだろうか
こうしてみると少しずつ仮説が正しそうに思えてくる
もちろん思弁的で僕の考えを脱しない程度の考えではあるが、僕自身の「読者の質が落ちた」という考えを改めるには十分だと思う
僕らの世代、もしかするともっと前から連綿と受け継がれてきたコミュニティー感の無くなりと承認欲求のなくなりを満たすための道具としてある程度の需要を持ってきた小説が
承認欲求を満たすという方面に特化されてきたのがなろうだと考えることにあまり無理は生じなさそうだ
つまり、今のなろう小説は承認欲求を満たすための道具であり、
僕らの世代のライトノベルと似た性質を有し、しかしその方向を特化させる事で大きく差別化された作品と言える
こう考えるとライトノベルの定向進化系に見えるのでなろうの方が売れそうに見える
ということは、今の小説家志望は、つまり僕みたいなのは
二次創作や妄想の入る余地の大きい、舞台設定が無限に広いがコミュニティーの範囲が狭めな、地の文の少ない文章を書くべきだと考えられます
無理だぁ…
出来ることなら明治時代くらいに生まれたかった…
周りからもお前生まれる時代間違えてね?とよく言われますね
ちょっとだけ最近の復讐系なろうについて復習してみようかな(激寒ギャグ)
いわゆる復讐系というのはパーティーやらなんやらの小コミュニティーから排除された主人公がそれらのコミュニティーを見返すために自分のもてる能力を使うという話です
みみっちいなぁ(個人の感想です)
大体なんか使い方によっては、というか拡大解釈をすると強い能力を持ってて(回復術師とかそうかな?)
周りにチヤホヤされながら承認欲求を満たしていき、自己の存在を否定する存在を駆逐するという構成になっています
これまでのなろうと違うのは自己の存在を否定する存在が出てくることですね
現実でも存在するような自分の対極にいる人間を悪者としてあてがい、いじめがえす事によって爽快感を演出するものです
まぁ人によっては不快感も募る訳だが…
実際に一定の層に需要があるのを見ると、自身を社会的弱者だと自覚がありながらも強者だと思い込みたい人間が読んでいそうですね、偏見ですが(耳に痛い話だ)
まぁそういった偏見は置いておいて、この場合に大事なのはなろう系列の中でも昨今日の目を浴びているジャンルだということです
自分のことを否定する人間は要らない、という構成になっているのが面白い点ですね
こういった側面も考える娯楽から妄想の道具という小説からライトノベル、そしてなろうという変遷を見てくれば出てきそうな話ですね
ちょっと過激派臭いけども
小話としてだが復讐系のなろうみたいな話が定年後の人達から新人賞に送られてくるそうな
何だこの国は
ともかく、これから売れる小説を書くなら、小コミュニティーの中でチヤホヤされつつ、他コミュニティーを破壊していくような話とか良さげだよね
デュラララのキャラを1人だけ過激に強くしてバランスを崩壊させる感じかな?
こっちならまだ書けそうな気が…しないなぁ…面白くもなさそうだし
そもそもコミュニティーの頂点の人間の話があまりちゃんと書けなさそうだ
というわけでざぁっと平成最後に思いついたことを書いてきてみた
多分平成にわたって自分が売れる小説や、今の読者層について間違えて考察していた部分を直すような形になっている気がする
自分と同じように小説家を目指している人の参考になればいいと思う
実際に話し合われて議論
ライトノベルとなろうの違いはストーリー性ではなく持続可能性ではないかという話
ライトノベルは拾えそうな伏線ばらまくだけばらまいてあとから回収するか決めるから先にまいておけば後から幾らでも引き延ばせるけど
なろうはその場その場での出来事を書いてるから伏線がなく場面の切り替わりが激しい
その面で前の章との繋がりがないって意味で持続性がない
かわりにライトノベルはページ数を大きく意識しないといけない反面なろうはページ数の縛り無く同じ章の話を延々とできる
巻数としての持続可能性が違いますね
その場の話を引き伸ばす形での持続可能性か
という違いがあるんじゃないかなぁ
もちろん反論もあると思う、思いついたら是非アカウントに凸して欲しいと思います
但し感情論は受け付ません、言われても言うことないしなぁ