EGOISTのライブに言ったときに思ったこと(ただしあまりライブの内容とは関係がない)
優霊って言います。自分のことを人間だと誤認しています。
このブログは暇になった時に卒論に使えそうで絶妙に使えなさそうな考えを気の向くままにここに書きつけるものです
真面目に書くつもりがないんで徒然なるままに書いて話がまとまらずに終わります。
決して真面目に哲学しません。需要があるなら承認欲求のためにするかもしれません。
多趣味なので急にそんなん知らねぇよって思う様な界隈のことについて話し始めます。許すかブラウザバッグでお願いします。
マドルチェでCSでてブログにしてぇ…
それで、今回は普段通りにEGOISTのライブに行ってきたのですが、その時になんとなく思ったことを書こうと思った次第ですね。
ちなみにEGOISTのライブは大学入ってから行き始めることができたのですが、確かFallen発売後からだったと思います。つまり新参者です。
cdはファーストから買っているんですけどね…高校生は金がねぇ。
そんな隙あらば自分語りは爆速でスキップしていただいた上で本題に。
丁度ライブに行き始めたのが大学に入った頃で、つまりは10年代中盤何ですけど、その時のライブを見た時の感想と今の感想の中で一部逆転しているところがあるなと思ったんですよ。
そりゃ時代の流れだと言われればその通りなんですけど。
一番最初にいのりちゃんのモデリングを見た時、勿論感動したんですけど、それ以外に「2次元が3次元に近づいてる」っていう感情があったんです。
その当時はちょうど、といっていいのかわからないんですけどボカロやらの、特にニコニコではやったものたちのブームが落ち着いた時期だったんです。
ボカロやそのほかいろいろなもので感じていた2次元が飛び出してくるような感覚、もしかすると2次元で起こってた夢が現実になるんじゃないかという感覚があったんです。
そんな中であのモデリングを見たからまぁ大変。太ももが良さ過ぎる。
これはそれこそあのモデリングが行き着く先は3次元に自分の嫁が出てきてくれてイチャコラできるんじゃないのかっていう。したすぎて鼻血出そう。
そう思っていたんですよ、ここまでは。
時代は進んで2017年。いろいろなことがありましたね。
その中でも注目すべきは劇場版のSAOとVtuber。特に前者は色々なことを説明しやすすぎて重宝しますね。
劇場版SAOで最も大事なことは現実が2次元に侵食されるという事。
実際にはありえないテクスチャを現実に張り付けることで我々がそれをあたかも存在するかのように扱うんです。
現実に2次元に乗っけるというやり方は、つまり自分たち側を2次元に合わせるという事で、自分が思っていたことと真逆なんですよね。
ちなみにこの作品で使われているのはARではなくMRっていう技術になります。詳しくはggrks
んで、これ、いま爆発的に増えているVtuberにも言えるんですよ。(ちなみに自分はこの業界の裏側を声優志望で猛練習してる友達に聞いてしまって素直に見れなくなりました。)
彼らも現実にいる人間たちに2次元のガワをかぶせることで成立しているんです。
これの利点は何かっていうと、見た目を自分たちの好きなように変えられるっていう点なんですよ。当たり前なんですけど。
現実には絶対にありえないような顔立ちとか―目が大きかったり、等身のサイズ感がおかしかったり―にすることができるんです。
多分陽キャの皆さんから見たら「何だこの偶像崇拝は…」ってなるはずですね。多分。
それで、それこそアニメ絵がなぜそれとして成立するのか、なぜ偶像崇拝の対象になりえるのか、考えたことはありますか?
これって一つ絶対的な基準があるんですよ。何かっていうと情報量の少なさ。
どんなモデルも間違いなく現実よりも情報量が少ないんです。
別にこれに対していい悪いは特にないです。
悪意はないんですけど、こういう情報を出した時点で「批判された!」って思う人が増えているのは嘆かわしいですよね。(偏見)
ちなみに宗教でもそうなんですよ。全てを語り得る=情報量の多いものって崇拝されにくいんです。分からないところが多い=情報量が少ないものの方が崇拝されやすいんです。
アイドルって偶像って意味だしそう言うものなんですよ。
柊シノアちゃんが可愛いのは胸の情報量が少ないからですね。間違いない。
ともかく、まとめると現実が2次元に近づいていく現状って、現実の情報量を限りなく稀薄化していく作業から始まるはずなんですよね。
ガワを被せてるんだからその分情報量は増えているんじゃないのかって意見はありそうですが、今話しているのは受け取りて側の情報量です。
それで、今回のアジアツアーのライブの話に飛ぶんですけど、chellyちゃんが座って歌うシーンがあるんですよ。
スカートの中が見えそうになっていたのももちろんとんでもないくらい最大限に大事なんですが、リボンが服を貫通していたり、手が服を貫通していたりしたんですよ。
これって技術的な問題だとは思うんですけど、ここにこそオタクってやつが求める2次元の神秘性があると思うんですね。現実とは違う理で動いていて、そしてそれを自分たちと共有できる。(これなんかは東京ゲームショウのゲーム部の握手会なんかが分かりやすいかな)
つまりいのりちゃんは神なんです。(元からそうである)
段々とみんなが情報量の少ないものを求めていく。そう言う風になっていくのかなといのりちゃんの太ももを見ながら思ったわけなんです。すくなくともそう言う風潮があるなって思ったんです。
これはアイドルだけじゃなくて、文芸→ライトノベル→なろう系っていう流れからでも確認できますよね。最初が怪しいんですけど。
ちょっと寂しいなと。表現者側ってむしろ情報量を多く届けることを考えていくと思うんです。多くのことを歌から伝えたいとか、感じ取ってほしいとか。
多分きっとchellyちゃんもそうなんじゃないかなと思うんですよね。多分。
それで、いのりちゃんのモデリングはブラッシュアップされていくんですよ。つまり情報量が増えていく。
既にいる固定ファンが離れるとは思えないのでいいんですけど、そう言う意味では時代の流れからはみ出した存在になっていきそうな気がしてるんですね。
寧ろVtuberの先駆けみたいな感じだったんですけど。
そこにいい悪いはないんですけど、個人的には多くのモノを能動的に受け取る人間が多い方がいいなって思うわけで。
そこらへんは仕方がない事なのかもしれませんね。
久しぶりにchellyちゃんを見た時にVtuberと重なって、そして違って見えたという話でした。
ちなみにニコ生見ていたら、「金のかけ方が違うな」というコメントがあったんですけど、Vtuberが最初からあそこまで現実に沿ったモデリングをしていたらこんなにはやらなかったと思いまする。
ここで多分分かる人は分かると思うんだけど「オチもなければ話がまとまってすらねぇ!」
全くもってその通りだ!まとめる気などさらさらない!
何故ならばここは教授に提出するレポートや書いている小説から漏れてしまった思想の掃きだめなのだから!思ったことを書いただけだ!(オタク特有の早口と!の多用)
次のライブが楽しみだなぁとあの太ももを思い出しながら黄昏る次第でございます(深夜)